2011年3月27日日曜日

東寺

延暦十三年(794)桓武天皇は、動乱の中に奈良から長岡京を経て平安京へと都を遷され、羅城門の東西にそれぞれ大寺を置かれました。現在の京都は御所をはじめとして大部分が東方へずれてしまっていますが、東寺は左寺とも申しますが本格的に活動を始めたのは弘法大師の造営以後であります。このお寺にはアショーカ王以来の伝統に従って、仏法によって国の平和が護られ、その光が世界の隅々にまでいきわたるようにということと、それぞれの思想がともに侵されず共存していく原理を見出だし伝え、共々に力を合わせ現実されていくようにと大師の願いが込められています。東寺の伽藍は南大門を入って金堂・講堂、少し隔てて食堂が一直線に置かれ、左右に五重塔を灌頂院が配置されています。塀で区別された境内はそのまま曼荼羅であり密厳浄土であります。
東寺は平安京以来千二百年の間に幾度も台風、雷火、兵火等の災害を受け、堂塔の大半を焼失しました。その都度、一般民衆の信仰の力によりもとの姿に再建され、とくに五重塔は古都の玄関の象徴として昔の菅らをそのままに伝えて京に至っております。(パンフレット抜粋)
五重塔
間近で見ると本当に大きかったです。
東寺の象徴として広く親しまれている五重塔は、天長三年(826)弘法大師の創建着手にはじまりますが、しばしば災火をうけ、焼失すること四回におよんでいます。現在の塔は寛永二十一年(1644)徳川家光の寄進によって竣工した総高55mの、現存する日本の古塔中最高の塔です。全体の形もよく、細部の組ものの手法は純和様を守っており、初重内部の彩色も落ち着いて、江戸時代初期の秀作です。



講堂
東寺の創建時にはなかった講堂は、天長二年(825)弘法大師によって着工され、承和二年(835)頃には完成しました。その後大風や地震で大破し、度々修理を重ねてきましたが、文明十八年(1486)の土一揆による線化で焼失しました。現在の講堂は延徳三年(1491)に再興された建物で、旧基壇の上に建てられ、様式も純和様で優美な姿を保っています。
二月末。春の訪れ。

今回は仏像を沢山見ることができ、満足な旅でした。

廣隆寺

【廣隆寺】 
広隆寺は推古天皇十一年(603)に建立された山城最古の寺院であり、聖徳太子建立の日本七寺の一つである。この寺の名勝は、古くは蜂岡寺、秦河勝が聖徳太子から仏像を賜りそれを御本尊として建立したとあり、その御本尊が現存する弥勒菩薩であることが廣隆寺資材交替実録帳を見ると明らかである。秦氏族が大勢で日本に渡来したのは日本書記によると第十五代応神天皇十六年で、主は養蚕機織の業であり、その他に大陸や半島の最新文化を我が国に輸入することにも努め農耕、醸酒等、当時の地方産業発達に貢献していた。我が国に大陸文化を移し産業と文化の発達の源流・経済の中心ともなった太秦の、この広隆寺は、衆生済度の道の探究、仏法への絶対的な帰依、そして"和を似って貴しと為す"平和な世界をめざされた慈悲の権化である聖徳太子の、理想の実現に尽力した秦氏の功業を伝える最も重要な遺跡であり、信仰と芸術の美しい調和とを如実に語る日本文化の一大宝庫である。広隆寺は弘仁九年(818)に火災に遭ったが、秦氏出身で弘法大師の弟子である道昌僧都によって再興、更に久安六年(1150)にいも炎上し、復興された。このように、度々の災禍にも拘わらず、多くの仏像がいかに強い信仰の対象となっておたかが、うかがわれる。(パンフレットより)
【弥勒菩薩半跏思惟像】
弥勒菩薩は、須弥山の弥勒浄土といわれている兜卒天にて、菩薩の行につとめられ、諸天に説法し、お釈迦さまにかわってすべての悩み、苦しみをおすくいくださり、正しい道へとお導き下さる慈悲の仏さまです。この半跏思惟像は、「一切衆生をいかにして救おうかと考えている」お姿を表しています。(パンフレットより)
どうやら、お寺の塀の色とこの白い線には意味があるようです。
水色っぽい塀は貴族が建立したことを表しており、線は寺の位を示しているそうです。
京都のお寺はほとんどが五本線で、滋賀県などに行くと三本線が増えるとか。
茶色の塀は武士が建立したみたいですけど。東寺が茶色なのは何故だろう。。

広隆寺には弥勒菩薩半跏思惟像が目的で訪れました。
赤松に彫られており、作者ははっきしていないようです。

本当に美しい仏さまでした。プロポーションやバランスがとても美しい。
ずっと眺めていたい気持ちでした。

京料理 ひし伊

お昼は京料理 ひし伊へ。
あらかじめ予約をして頂いていたので、お店へ行くと座敷へ通されました。
3000円の懐石料理のコースを注文。

色合いも綺麗で、味付けも上品でとても美味しかったです。
食べるのに夢中になり写真は二枚しか撮っていませんでした…。無念。

お店の場所は広隆寺のすぐ目の前でした。

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御室

京都旅行で一番気に入ったお寺です。

仁和寺の創建は平安時代、第五十八代光孝天皇が西山御願寺として着工されたのに始まります。仁和四年(888)、宇多天皇が先帝のご意志を継がれ、仁和寺を完成させました。宇多天皇は、退位後、出家して仁和寺を住坊され、三十余念もの間、真言密教の修行に励まれました。以来、明治維新まで皇子皇孫が仁和寺の門跡となられ、仁和寺じゃ御室御所と呼ばれ親しまれてきました。
(パンフレットより)















名勝 御室桜
御室桜のなかでも、特に「御室有明」と呼ばれる種類は御室の地特有の桜としてよく知られています。おかめ桜と呼ばれているようです。 
 春になったら桜が綺麗なんでしょうね。是非一度春に訪れてみたいです。

仁和寺が寛永年間に再興されたとき、京都御所の紫宸殿を移築し本堂としました。
仁和寺で引いたおみくじは大吉でした。気に入ったお寺で大吉が出たのでちょっと嬉しかったです。
右は、母がお揃いで購入してくれた桜のお守り。可愛いので携帯につけています。
宇多天皇と言えばやはり黒猫ですね。寛平御記?でしたっけ。読んでいると微笑ましくなります。
宇多天皇が父親から譲り受けたから大切にしていると言い訳をしていますが、本当に黒猫を愛でていたことが伺えます。そんな宇多天皇が可愛いです。
天天天...
仁和寺は植物と建物の調和がとても美しく、解放感がありました。
庭も一日座って眺めていても飽きないと思います。時期をみて訪れた方がいいと今回は心底感じました。来年の春に再訪を誓い仁和寺を後にしました。

今宮名物あぶり餅

【あぶり餅】
京都洛北の今宮神社は大国主命が祭神でその昔、一条天皇の長保二年(1000)京の町に疫病が流行したので、別にお宮を建て疫病よけを祈願した。陽春四月"やすらい花"と歌い踊る伝統の"やすらい祭り"は花散る頃にはやる疫病を封じようと氏子の人々の願いから今も長く伝わり、参詣の人々は帰るに"あぶり餅"を食し疫病除けをするならわしとなって伝わっている。…そうです。
本家根元かざりや
向かいにもあぶり餅のお店がありましたが、どうやらこのかさりやさんが本家だそうです。
私の好きな松平健さんも訪れていたようで、写真が飾ってりました。
白味噌ベースで、関東育ちの私には馴染みのない味でした。
みたらしも関東とは異なる味でしたが、どうも私には合いませんでした。

龍安寺

徳大寺家の別荘だったのを、宝徳二年(1450)官領細川勝元が譲り受け寺地とし、妙信心寺の義天玄承を開山として創建されたものである。応仁の乱に焼失して、明応八年(1499)、勝元の子、政元が再興したが、寛政九年(1797)火災で方丈・仏殿・開山堂などをうしなったものである。方丈は、その時西源院の方丈を移築したものである。方丈の前庭は枯山水の石庭として著名で、臨済宗妙心寺派に属し、大雲山と号し禅苑の名刹である。(パンフレットより)
【石庭の鑑賞】
石の象(かたち)、石群、その集合、離散、遠近、起伏、禅的、哲学的に見る人の思想、信条によって多岐に解されている。(パンフレットより)



石庭ばかり撮ってしまいました。
他にもつくばいや侘助椿がありました。
侘助椿は、豊臣秀吉が朝鮮出兵の時に、家臣が持ち帰ったものだそうです。持ち帰ったのが侘助という人であったため、侘助椿と命名されたようです。この椿は他の椿に比べて、花が小さくとても可愛らしいかったです。

詩仙堂

現在詩仙堂とよばれているのは、正しくは凹凸窠であり、詩仙堂はその一室である。詩仙堂の名の由来は、中国の漢普唐宋の詩家三十六人の肖像を狩野探幽に描かせ、図上にそれら各詩人の詩を丈山自ら書いて四方の壁に掲げた"詩仙の間"を中心としているところからよばれている。丈山がこの堂に掲げるべき三十六詩人とその詩を選定したのは、寛永十八年、五十九歳の時であった。これは、我が国の三十六歌仙にならったもので、その選定には林羅山の意見も求め、左右十八人、それぞれの組み合わせに意味をもたせた。蘇武と陶潜、韓愈と柳宗元等七対は羅山の改定した所である。建造物はのちに寛政年間、多少変更を見たが、天災地変の難を免れ、庭園と共に往時をそのままに偲ぶことができる。丈山はここに"凹凸窠"十境を見たてた。入口に立つ(1)小有洞の門、参道を登りつめた所に立つ(2)老梅関、建物の中に入り(3)詩仙の間、読書質である(4)至楽巣(猟芸巣)、堂上の楼(5)嘯月楼、至楽巣の脇の井戸(6)膏肓泉、侍童の間(7)躍淵軒、庭に下り、蒙昧を荒い去る滝という意の(8)洗蒙瀑、その滝が流れ込む浅い池(9)流葉(三水)+陌、下の庭に百花を配したという(10)百花塢、その他丈山考案の園水を利用して音響を発し、鹿猪が庭園を荒らすのを防ぎ、また、丈山地震も閑寂の中にこの音を愛し老隠の慰めとしたという"僧都"(添水、一般には鹿おどしともいう)等は今も残されている。詩仙堂の四囲の眺めを見たてた"凹凸窠十二景"は画家に絵を描かせ丈山自ら詩を作ったものである。丈山の遺愛の品である"詩仙堂六物"、多数の硯、詩集である「覆醤集」等多数の品々が残されている。これらは毎年五月二十三日の丈山忌後、二十五日から数日間、「遺宝展」として一般公開している。現在は曹洞宗大本山永平寺の末寺である。詩仙堂の式にはそれぞれの趣きがあるが、特に五月下旬の"さつき"、十一月下旬の紅葉等がすばらしい。(パンフレットより) 





【石川丈山】
石川丈山は、天正十一年(1583)三河国に生まれた。石川家は父祖代々徳川譜代の臣であり、丈山も十六歳で家康公に仕え、近侍となった。三十三歳の時、大阪夏の陣では勇躍先登の功名を立てたが、この役を最後とし徳川家を離れ、京都にて文人として藤原惺窩に朱子学を学んだが、老母に孝養を尽すため、広島の浅野侯に十数年仕えた。その後母を亡くした丈山は五十四歳の時、京に帰り相国寺畔に住居した。寛永十八年(1641)五十九歳で詩仙堂を造営し、没するまでの三十余念を清貧の中に、聖賢の教えを自分の勤めとし、寝食を忘れてこれを楽しんだ。丈山は隷書、漢詩の大家であり、また我が国における煎茶(文人茶)の開祖である。(パンフレット抜粋) 



 次回訪れる時は、パンフレットに記載されているとおり皐の季節に再訪したいです。