2011年3月27日日曜日

詩仙堂

現在詩仙堂とよばれているのは、正しくは凹凸窠であり、詩仙堂はその一室である。詩仙堂の名の由来は、中国の漢普唐宋の詩家三十六人の肖像を狩野探幽に描かせ、図上にそれら各詩人の詩を丈山自ら書いて四方の壁に掲げた"詩仙の間"を中心としているところからよばれている。丈山がこの堂に掲げるべき三十六詩人とその詩を選定したのは、寛永十八年、五十九歳の時であった。これは、我が国の三十六歌仙にならったもので、その選定には林羅山の意見も求め、左右十八人、それぞれの組み合わせに意味をもたせた。蘇武と陶潜、韓愈と柳宗元等七対は羅山の改定した所である。建造物はのちに寛政年間、多少変更を見たが、天災地変の難を免れ、庭園と共に往時をそのままに偲ぶことができる。丈山はここに"凹凸窠"十境を見たてた。入口に立つ(1)小有洞の門、参道を登りつめた所に立つ(2)老梅関、建物の中に入り(3)詩仙の間、読書質である(4)至楽巣(猟芸巣)、堂上の楼(5)嘯月楼、至楽巣の脇の井戸(6)膏肓泉、侍童の間(7)躍淵軒、庭に下り、蒙昧を荒い去る滝という意の(8)洗蒙瀑、その滝が流れ込む浅い池(9)流葉(三水)+陌、下の庭に百花を配したという(10)百花塢、その他丈山考案の園水を利用して音響を発し、鹿猪が庭園を荒らすのを防ぎ、また、丈山地震も閑寂の中にこの音を愛し老隠の慰めとしたという"僧都"(添水、一般には鹿おどしともいう)等は今も残されている。詩仙堂の四囲の眺めを見たてた"凹凸窠十二景"は画家に絵を描かせ丈山自ら詩を作ったものである。丈山の遺愛の品である"詩仙堂六物"、多数の硯、詩集である「覆醤集」等多数の品々が残されている。これらは毎年五月二十三日の丈山忌後、二十五日から数日間、「遺宝展」として一般公開している。現在は曹洞宗大本山永平寺の末寺である。詩仙堂の式にはそれぞれの趣きがあるが、特に五月下旬の"さつき"、十一月下旬の紅葉等がすばらしい。(パンフレットより) 





【石川丈山】
石川丈山は、天正十一年(1583)三河国に生まれた。石川家は父祖代々徳川譜代の臣であり、丈山も十六歳で家康公に仕え、近侍となった。三十三歳の時、大阪夏の陣では勇躍先登の功名を立てたが、この役を最後とし徳川家を離れ、京都にて文人として藤原惺窩に朱子学を学んだが、老母に孝養を尽すため、広島の浅野侯に十数年仕えた。その後母を亡くした丈山は五十四歳の時、京に帰り相国寺畔に住居した。寛永十八年(1641)五十九歳で詩仙堂を造営し、没するまでの三十余念を清貧の中に、聖賢の教えを自分の勤めとし、寝食を忘れてこれを楽しんだ。丈山は隷書、漢詩の大家であり、また我が国における煎茶(文人茶)の開祖である。(パンフレット抜粋) 



 次回訪れる時は、パンフレットに記載されているとおり皐の季節に再訪したいです。