2011年3月25日金曜日

六波羅密寺

そして
空也の寺
源平両氏の中心史蹟の六波羅密寺へ。
【六波羅密寺の歴史】
天暦五年(951)醍醐天皇第二皇子光勝空也上人により開創された西国第十七番の札所である。当時京都に流行した悪疫退散のため、上人自十一面観音像を刻み、御仏を車に安置して市中を曳き廻り、青竹を八葉の蓮片の如く割り茶を立て、歓喜踊躍(かんきゆやく)しつつ念仏を唱えてついに病魔を鎮められたという。平安後期、平忠盛が当寺内の塔頭に軍勢を止めてより、平清盛・重盛に至り広大な境域内には権勢を誇る平家一門の邸館が栄え、その数五千二百余に及んだ。寿永二年(1183)平家没落の時兵火を受け、諸堂は類焼し、独り本堂のみ焼失を免れた。源平両氏の興亡、北条・足利と続く時代の兵火の中心ともなった当時はその変遷も甚しいが、源頼朝、足利義詮による再興修復をはじめ火災に遭うたびに修復され、豊臣秀吉もまた大仏建立の際、本堂を補修し現在の向拝を附設、寺領七十石を安堵した。徳川代々将軍に朱印を加えられた。現本堂は、貞治二年(1363)の修営であり、明治以降荒廃していたが、昭和四十四年、(1969)開創一,〇〇〇年を記念して買いたい修理が行われ、丹の色も鮮やかに絢爛と当時のものと思われる梵字、三銛、独銛模様の瓦を始め、今昔物語、山槐記等に記載されている泥塔八千基が出土した。(パンフレットより)




ここには、運慶の四男康勝作の空也上人立像があります。
伝承のままに、念仏を称える口から六体の阿弥陀が出ていました。
空也上人、一際かっこいいプロポーションでした。
「ひとたびも 南無阿弥陀仏と いふ人の はちすの上に のぼらぬはなし」
空也
それから、四天王立像・閻魔大王像・運慶像・湛慶像などがありました。